福岡ソフトバンクホークスに所属する内川聖一選手。WBCでも活躍するまでになりました!

難病を克服して、プロ野球選手になりました。これからも、子どもたちに夢と希望を与えるために頑張れ!

内川 聖一選手

内川 聖一選手(1982年(昭和57年)8月4日大分県生まれ。身長184cm、体重86kg)といえば、2013年のWBCでの涙が一番新しく記憶に残っている選手です。その他にも難病を克服してのドラフト1位指名された選手で有名です。病気と闘っている子供にたとえ困難な病気であっても、夢は叶うんだ!とプロ野球選手として夢を与えた選手ではないでしょうか?!

2000年(平成12年) 第36回ドラフト会議(東京・新高輪プリンスホテルで行われた)での結果を、当時高校生の内川聖一選手は校内避難訓練に参加しているなか朗報を耳にしました。もちろん1位指名した横浜ベイスターズ内部にも内川1位を懸念する声は確かにありました。大分県立大分工業高等学校入学して間もなくの高校1年生の秋、骨に穴があき空洞になった内部に黄色の液体がたまる骨嚢腫(こつのうしゅ)になりました。(骨嚢腫:骨腫瘍類似疾患のなかでは、もっとも発生数の多い病気。よくおこる部位は、上腕骨(じょうわんこつ)の上端(肩近く)と、大腿骨(だいたいこつ)(ももの太い骨)の上端(骨盤(こつばん)近く)です。また、踵骨(しょうこつ)(かかとの骨)にも発生します。病気が発生しやすい年齢は、10歳代で、ついで10歳未満)それは3度の手術というとても過酷ものでした。「歩くのがやっとの毎日」が半年もの間続くことになりました。そんな病魔を克服した2年生の夏から実質1年間で43本塁打を記録したスラッガーとなり、大きく成長していきました。3年生の全国高等学校野球選手権大分大会には遊撃手として出場、チームは準優勝を挙げました。甲子園に縁はありませんでしたが、その活躍は「大分に一発のある大型のスラッガーがいる」という評判となり、その活躍は瞬く間に広がっていき、12球団のほとんどがマークするほどの人材でした。その中でも熱心だったのが広島と横浜でした。争奪戦の末、横浜が競り勝ったのは人脈だったと思います。内川選手の担当は、98年横浜優勝時に内野守備走塁コーチを務めた岩井隆之スカウト。法政大学出身の岩井スカウトは内川聖一選手の父・一寛さんの大学時代の先輩です。しかも、岩井スカウトは4年生の時に主将を務めていました。体育会の伝統としてキャプテンには逆らえない、というわけではもちろんないのでしょうが、学生時代の関係が有利に働いたことは間違いないと思います。広島東洋カープも指名予定でしたが、その当時もまた足に故障を抱えていたため、もし広島から1位指名された場合は拒否をして父親の出身大学がの法政大学へ進学するとも言われていました。なぜ広島へ入りたくなかったというと、その当時ヘッドコーチである大下剛史主導によって広島は猛練習をしていました。その練習に不安を感じていたとされています。ちなみに横浜との入団契約の中には、故障の治療を保障する条件が盛り込まれています。難病を克服した足は、“爆弾”を抱えた選手とも言われてもいました。横浜の内部でも、わざわざトップで指名しなくても…という指摘もありましたが、岩井スカウトは「高校生であれだけのバッティングをする選手はそういない。走れるし、守備も鍛えれば十分使える」と強調して、内川聖一選手は20世紀最後のドラ1内野手(10球団が投手、巨人が中央大・阿部慎之助捕手を指名)となりました。プロ野球に入ってからの活躍は後で述べるとして、WBCでの涙の出来事も振り返ってみましょう。

2013年3月18日(月) 試合場所は米サンフランシスコAT&Tパークです。準決勝 プエルトリコ 3-1 日本 で二連覇をしていた日本ですが、残念ながら負けてしまった試合です。

8回に痛恨のミスでの負け。 井端弘和内野手(37)の適時打で1点を奪い、追い上げの機運が高まった8回1死一、二塁。4番阿部の2球目に重盗を試みたが、失敗。一塁走者の内川聖一外野手(30)がアウトになり、チャンスは一瞬にして消えてしまいました。内川聖一選手は試合後、涙ながら語りました。「僕のワンプレーで終わらせてしまったことを申し訳なく思う。勝ってほしいと応援してくれた人たちの、その気持ちを全部自分が終わらせてしまったようで申し訳ない気持ちでいっぱいです。全部いい訳になるけど僕が全部壊してしまった。過去の先輩たちにも申し訳ない気持ちで一杯です」と。

山本監督は「8回の走塁失敗について、あれはどのような戦術だったのか?」という質問に対して、「8回の走塁はダブルスチールを行ってもいいというサインでした。スタートで井端(弘和)が少し遅れましたが、どちらにしても選手は本当によくやってくれました。この経験がこれからの野球人生にもプラスになるのではないかと思います。」そして、続いての質問で「打席には強打者(阿部慎之助)が入っていたにも関わらずダブルスチールを狙ったのはなぜか?」山本監督は「あの投手(ロメロ)の動きが大きいというのはビデオで見てわかっていましたし、そういうチャンスがあれば行くということはミーティングで話していました。もちろん打席には阿部が入っていましたが、1つでも前の塁に行くという姿勢でしたから。この作戦は失敗か成功かだけですから、悔いはありません」結果は、「行ければ三塁に盗塁してもいい」というサインで、井端は十分なスタートが切れずに、盗塁を断念。しかし、一塁の内川は、井端が三盗を決行したと思い、一目散に二塁に走った。盗塁断念に気が付いたのは、塁間の半分を超えてから。二塁近くで立ちすくむ内川は、走ってきたモリーナ捕手にタッチされ、万事休す。内川選手は、自分を責めて涙を流していました。一人で責任を背負っていた内川選手に対して、ファンは「ここまでこれたのは、井端と内川がいたから。ありがとう!」と内川選手に激励のメールがかなり届いたといいます。今までもそして、これからも、野球を愛するファンとして内川聖一選手のプロフィールをご紹介しましょう!

ドラフト1位で入団したのは、横浜ベイスターズですが、現在は福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)です。先程述べた父親である内川一寛さんが大分県立国東高等学校の監督だったため、吉田豊彦(元元東北楽天ゴールデンイーグルス)とは子供の頃からの知り合いです。

プロ野球選手1年目にして、開幕一軍を経験します。オープニングゲームのヤクルト1回戦(横浜)で代走として起用されデビューします。8年後の2008年にプロ野球史上右打者として最高打率となる3割7分8厘をマークして首位打者になりますが、その首位打者になるまでの8年間はまわり道であり、まさにいばらの道でした。

翌2年目の2002年から代打として42試合に出場、70打席ながら打率.333、2本塁打と結果を残しました。

2003年のキャンプ中に、突然右目の視力が極端に悪くなり、開幕一軍を逃します。シーズン途中に再調整のため降格した石井琢朗に代わり、5月から2番・遊撃手のレギュラーに定着。原因不明の体調不良が続いて右手の握力が弱くなり、ボールを握ることすら出来なくなってしまったため、6月に登録抹消。9月に再昇格した後は二塁手として起用され、打率.313の好成績を残しました。突然の体調不良の原因は、アゴが右側に曲がって頚椎の神経を圧迫していたことだったことが判明。契約更改では顎の整形代という理由で年俸を微増されましたが、結局顎の整形は行なわずに、奥歯の噛み合わせを矯正することで神経の圧迫を解消することができました。

2004年、7番・二塁手として初めて開幕スタメンに起用。1年を通じて二塁での先発出場が多くなりました。打撃では自己最多の17本塁打を放ち、得点圏打率は4割後半を記録しました。

2005年、堅守の種田仁が打撃好調だったため、慣れない左翼手のポジションを小池正晃や古木克明と争います。しかし、後半戦のレギュラーは守備力の高い小池正晃に固定されたことにより、代打での出場が多くなりました。

2006年には不振の種田に代わり二塁手に復帰。佐伯貴弘を筆頭にチームに故障者が相次いだことや、自身の送球難から左翼手や一塁手に回る事も多くありました。初めて100試合出場を達成しましたが、規定打席には届きませんでした。

2007年、多村仁の移籍や自身の守備難により本格的に外野手へ転向。右翼手に固定されます。開幕から結果が出ず降格した時もありましたが、再昇格後の8月には打率.448を記録し、復活を印象付けますこのシーズンではプロ入り後初めて、シーズンを通して外野手を務めました。

2008年も当初は代打要員でした。大ブレークのきっかけは、4月24日の巨人5回戦(東京ドーム)で代打で犠飛を打った後、一塁の守備に入ったことでした。キャンプでは外野のみ練習してきただけに、便利屋のように使われたことに内川自身も「わだかまりはあった」と言っています。それでも、自分自身で試合に出てナンボの選手とすぐに切り替えたといいます。打撃は好調で、佐伯の不振によって4月末に一塁手のレギュラーに定着します。この活躍には2008年から横浜のコーチとなったかつてのヤクルトドラフト1位、杉村繁コーチとの関係も大いにあったことでしょう。試合前に行う打撃フォームのポイントチェックによって、バットを振ればヒット、という日々が続き、打率が4割を超える時期も長く続く活躍となりました。その結果オールスターゲームに監督推薦で外野手部門で初出場、2試合を通じて5打席連続安打を記録するなど活躍。その活躍でマツダ・ビアンテ賞を獲得しました。後半戦も好調を維持し、右打者としては1999年のロバート・ローズを抜き、日本人選手のセリーグ記録も更新する打率.378を記録(従来は1951年、巨人・川上哲治の.377)。内川選手自身初の首位打者に輝きます。このシーズンでは最多安打(189安打)、最高出塁率(.416)のタイトルも獲得したほかに、得点圏打率は両リーグトップの.449を記録。村田修一、吉村裕基とともに右打者の並ぶクリーンナップは、低迷するチームの中にあって他球団の脅威となりました。

2009年 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出されます。第1ラウンド2回戦の対韓国戦に6番・一塁手として先発出場。金廣鉉から三塁線を破る2点適時二塁打を放ち、勝利に大きく貢献しました。第2ラウンド1位を決める対韓国戦でも、先制された直後に張洹三から同点本塁打を放っています。決勝の韓国戦では6番・左翼手として出場、5回裏の守備では高永民が打った鋭い当たりにスライディングで突っ込み、正確な送球で打者走者を二塁でアウトにする好プレーを見せます。打撃でも3安打と活躍、10回表に先頭打者として右前安打を打ってイチローの決勝2点適時打のお膳立てをし、走者として決勝の得点を踏みました。この大会では主に左投手相手に起用、大会成績は6試合出場で打率.333(18打数6安打)、1本塁打でした。

2009年は内川選手が大きく活躍する年となりました。内川選手と同じくWBCの代表に選出された村田選手が大会期間中の3月30日に右脚を故障してしまったアクシデントのため、内川選手は開幕4番打者を務めることになり、全打順での試合出場を達成しました。平成になって初の台覧試合となった7月12日のヤクルト戦(明治神宮野球場)の試合前に、愛子内親王が内川選手のファンであったこともあり皇太子一家への挨拶を果たすことになりました。その際に、自身のファンであることを聞かされた内川選手は「僕でいいのかな」とコメントを残しています。この年はアレックス・ラミレスと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.318を記録しました。この年外野手として獲得したダン・ジョンソンが怪我で一塁しか守れないこともあり、同年は主に左翼を守りました。2010年、6月3日に国内FA権を獲得。6月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、小椋真介から自身初の満塁本塁打を放ちました。当初は主に3番・一塁手としての出場が多かったのですが、シーズン途中に獲得したブレット・ハーパーが一塁しか守れなかったため、シーズン後半は1番・右翼手での出場が中心となります。最終的にリーグ3位の182安打を記録、自身初めての全試合出場、3年連続打率3割を達成することができました。この年10月5日、フジテレビアナウンサーの長野翼との交際が明らかになりました。シーズン終了後の11月8日、FA権行使を表明。福岡ソフトバンクホークスと広島東洋カープが獲得に名乗りを上げ、両球団と交渉を行い、12月1日に内川の地元である大分に最も近い球団であるソフトバンクへ移籍することを表明しました。

12月6日に正式に契約を交わし、同じく移籍した細川亨とともに入団会見を行いました。契約内容は4年契約で総額5億6000万円から13億6000万円の間での変動制。背番号はWBCでも着用した24で決まりました。

2011年、4月に打率.397、安打、塁打でリーグトップ。打点、二塁打でリーグ2位タイ、長打率でリーグ3位の好成績を残しました。内川選手自身2度目となる月間MVPを獲得することになりました。交流戦では打率 .326(交流戦6位)、20打点(交流戦4位)、4本塁打(交流戦7位タイ)、長打率.554(交流戦2位)と活躍。交流戦のソフトバンク優勝に貢献して、MVPも獲得しました。その後、度重なる左足腿のケガに悩まされ一軍登録抹消やベンチ入りしながら代打出場にとどまる試合がありながらも、規定打席に到達。首位打者を事実上確定させた後も最終戦まで出場を続け、打率.338で自身2度目、江藤愼一以来史上2人目の両リーグでの首位打者を獲得することができました。

ポストシーズンではクライマックスシリーズファイナルステージでは第1戦と第2戦に先制打を放つなど活躍し、最優秀選手賞を獲得。日本シリーズでは第2戦の第2打席では、中日ドラゴンズの落合博満監督からバットにテーピングをしていることに対しクレームをつけられ、テープを剥がしてプレイを続行した。12月1日には、パ・リーグ年間最優秀選手に選出され、自身初となるシーズンMVPを獲得しました。

2012年シーズンからは、監督の秋山幸二が現役時代に付け、前年まで柴原洋が着用していた背番号1を引き継ぐことになりました。シーズンでは開幕当初は安定していましたが、6月には月間打率.128と大不振。7月からは打率.346と巻き返し、5年連続となる打率.300を記録し、最多安打のタイトルを獲得。契約更改では、現状維持の1億7000万円で更改しました。

2013年には、WBC・侍ジャパンの代表候補に選ばれ、最終代表(28人)に選出。3月24日のオランダ戦では、2回表に今大会初のホームランを放ち、チームの勝利に貢献しました。しかし、準決勝のプエルトリコ戦で、前述のプレーで内川の涙となりWBC・侍ジャパンの戦いは終わりました。シーズンでは、4月29日のロッテ戦で、横浜同期入団の吉見祐治から史上267本目となる100号本塁打を放っています。

プライベートでは、交際していた長野翼アナウンサーと、2010年3月24日に結婚。さらに2012年6月5日、球団のツイッターで、翼夫人が5日に福岡市内の病院にて、体重3,956g女児を出産。内川選手も一児のパパとなりました。独身時代は「酒も飲まず、たばこも吸わず、ストレスの発散の仕方が分からない。」と言っていただけに家族の支えが内川選手の心の支えになっているようです。

翼夫人は元フジテレビの女性アナウンサーで、広島東洋カープの大ファンとのこと。FA宣言後、翼夫人が大ファンという広島東洋カープとも交渉を行っていたそうです。

女子アナとプロ野球選手の結婚は、ありがちなカップルですが翼夫人は結婚しても、出たがる他のプロ野球選手の妻とは違って家庭に入り、しっかりと旦那様を家庭で支えているようです。

そんな翼夫人は、1981年3月16日生まれで愛媛県の現今治市出身。高校生活の時にすでに一人暮らしを送っていたそうです。実家から遠く離れていたからとのことですが、高校生で一人暮らしをすることによって自立心が育まれていったのではないでしょうか。今治西高等学校を卒業後は、早稲田大学第一文学部卒業。なぜ早稲田かというとアナウンサー希望だったためマスコミへの就職者が多いという理由で早稲田に進学したそうです。2003年にフジテレビへ入社しますが、もともと報道希望のためタレント的要素が多い民放よりもNHK志望だったことを明かしています。そんな希望通り、入社後から『FNNスーパーニュース』でリポートを担当していました。

新人時代に、競馬番組担当を希望しています。アナウンサー2年目となった2004年4月から、『あしたのG』を番組終了まで担当。そのまま後番組の『うまッチ!』にも出演し、BSフジで放送していた『競馬大王』と後継の『BSフジ競馬中継』でも進行役を務めていました。『うまっチ!』と『スーパー競馬』を掛け持ちしていた若槻千夏の病欠中(2006年11月5日〜12月10日)に『スーパー競馬』担当に移り、2007年1月から正式に司会となりました。2007年4月8日からは、『報道2001(現:新報道2001)』に黒岩祐治のアシスタントMCとして登板するようになり、それ以降の約半年間、朝は報道、昼は競馬というスケジュールをこなしていました。夏のローカル競馬開催期間中には、『2001』生放送終了後に福島競馬場や新潟競馬場へ直行、『スーパー競馬』の放送に臨むというハードスケジュールを送っていました。10月1日から2011年3月25日まで『スーパーニュース』のサブキャスターとして登板した。

『スーパーニュース』のサブ昇格後、日曜日の『スーパー競馬』も継続して司会を担当。よって、週6日の生放送担当というシフトスケジュールを送っていましたが、2007年12月23日を以て『スーパー競馬』が番組終了となったため、競馬担当から外れ、翌2008年1月からは『スーパーニュース』一本を担当していました。

2009年4月4・5日は、北朝鮮の弾道ミサイル発射関連のFNN報道特別番組のキャスターを担当。またその年の10月5日、当時プロ野球横浜ベイスターズに在籍していた内野手・内川聖一との真剣交際が明らかになりました。2010年1月13日に婚約発表を行い、3月24日に結婚となりました。婚約発表したその年の暮れに内川選手がソフトバンクへフリーエージェント制度を利用して移籍したことから、別居(夫は単身赴任)するのかそれともフジテレビを辞めて福岡へ移り住むのか、去就が注目されていましたが、結婚退社後夫が所属するチームの本拠地である福岡に居を移して、自らは表に出ず夫のサポートに専念しています。フジテレビを辞めた場合、福岡で活動するかも?!と考えフジテレビ系列のテレビ西日本が、何らかの形で受け皿になろうとオファーを出していたそうですが、夫を支える為にすっぱりと家庭に入る潔さは、なかなかかっこいいと思います。

2011年3月末での退社となっていましたが、その退社間近の3月11日に甚大な被害をもたらした、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。彼女ももちろん報道特別番組に駆り出されることとなりました。3月12日に出演予定だったフジテレビONE『フジアナスタジオ まる生2011』は放送中止となりました。そして、3月25日の『スーパーニュース』最後の出演でも大震災、さらには緊迫した状態が続く福島第一原子力発電所の状況を放送時間の大半に割き、視聴者へのお別れの挨拶ができないまま出演を終了しました。報道希望でアナウンサーになっただけに、自分最後の出演になる番組でも報道の使命を全うすることを最優先させて姿は立派だと思います。ある意味男気あふれる女子アナウンサーだったのではないでしょうか。彼女には「女子アナウンサー」ではなく、「アナウンサー」という言葉がふさわしいと思います。

なぜ彼女が広島東洋カープのファンだったのかというと、育ったのは岡村島といい、場所は瀬戸内海に浮かぶ広島県との県境の島だったからです。呉市(大崎下島)と隣接していて、現在は安芸灘諸島連絡架橋によって本土・本州の広島県と陸続きとなっており、広島市内にも車で40分〜50分程度の土地柄もあり、広島東洋カープのファンというのも、うなずけます。ちなみに、岡村島は四国・愛媛県側とは陸続きになっていません。独身の頃、犬(チワワ)を飼っていたそうで、メスの「ハッサク」(八朔)は現役アナウンサー時代にはニュースリポートにも度々登場させていたほど可愛がっていたようです。。現在はオスの「レンジ」と2匹になっているそうですが、子どもも生まれて福岡で楽しい毎日を過ごしているんでしょうね~